飛島建設

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飛島建設の歴史

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136年の歩み

 今年は、1883年(明治16年)に福井県で飛嶋文次郎が土木請負業の「飛島組」を創設して以来136年目にあたります。明治、大正、昭和、平成と4時代にわたる、当社の歴史の一端を紹介します。

飛嶋文吉の写真

飛嶋 文吉

 「飛島組」の隆盛を導いた実質的な創業者の飛嶋文吉は、1876年(明治9年)、文次郎の長男として生まれ、1888年(明治21年)の13歳から石工として父の片腕となり、土木請負業者として実力を発揮していきました。ただ、草創の時期は、必ずしも順風満帆とは言えず、1897年(明治30年)、石川県手取川の改修工事で引渡し直前に襲った豪雨により、工事現場が一夜にして流されて親子ともども手痛い失敗を負い、艱難辛苦の時代を経験しました。しかし、1901(明治34)年の福井県立農学校敷地造成工事で、ようやく転機が訪れました。文吉は、土砂の運搬に牛車などを使用していた時代に、当時としては最新の道具の「トロッコ」を採用してコストダウンを実現し、しかも半分の工期で完成させたことで請負業者として高い評価を得るに至りました。
 その後、飛島組は福井県内の水力発電所で発注者の高い信頼を獲得し、それを契機として、明治末から大正にかけて国内産業が隆盛し水力発電が盛んに建設された時流に乗り、「水力の飛島」「土木の雄」として全国に飛躍していきました。関東には、1915(大正4)年の栃木県鬼怒川堤防工事で初めて進出しています。

 「己の利を計らんと欲せば己の利を後とし、これを犠牲としてまず相手の利を計れ。相手に提供した自分の犠牲は己の努力と創意工夫をもって補え。」という飛嶋文吉の経営理念は、現代の「顧客ニーズの最優先」に通じます。工事に対する誠実さ、責任感の強さは人一倍で、発注者の信頼も厚く、次々と全国の難しい発電所工事などを任せられるに至りました。こうした文吉の人間性に引かれ、熊谷三太郎(後の熊谷組、昭和13年独立)、前田又兵衛(後の前田建設、昭和21年独立)など優れた協力者が参集し、飛島組の躍進の原動力となりました。
 また、昭和初期の大不況の時代にも先見の明を発揮し、1931年(昭和6年)、新たな事業として羽田飛行場(羽田空港の前身)などの埋立事業にも進出しました。

 飛嶋文吉は、1939年(昭和14)年、64歳で亡くなりました。

 戦後、飛島組は企業再建整備法の適用を受け解散し、文吉の三男の飛島齊が1947(昭和22)年3月に飛島土木を設立しました。飛島組の解体に伴い、飛島土木は100人に満たない社員とわずかな機械で、残余工事で急場をしのぐ大変厳しい出発となりましたが、社員の懸命な努力により、戦後の復興に伴う水力発電工事などを受注し、建設業者として復活を遂げました。
 昭和30年代の高度成長時代には、新幹線、高速道路、地下鉄工事などの土木工事に実力を発揮しました。1965(昭和40)年に、折からの住宅ブームに呼応し、土木偏重のイメージを一新し飛島建設と改名しました。
 その後、青函トンネル、本州四国連絡橋、東京湾アクアラインなどのビックプロジェクトにも参画し、また、建築の分野でも、レジャー施設のヤマハ「つま恋」、大規模な集住宅の「須磨パークヒルズ」、民活第一号となった「かながわサイエンス・パーク」などの著名な建築物についても、当社の設計・施工で完成させてきました。
 当社は、先人達が努力によって幾多の困難な時期を乗り越えてきましたように、現在、社員の一丸となった努力で新生を図っています。